戦地に送られた梵鐘の代わりに下げられた「沈黙の鐘」のメッセージ
昭和16年に公布された国家総動員法にもとづく金属回収令によって、生活のなかにあるあらゆる金属類は根こそぎ回収。お寺の梵鐘も戦地に送られた。写真は称名寺の石の鐘(信濃町)、明専寺の石の鐘(信濃町)、徳満寺のコンクリート梵鐘(飯綱町・いいづな歴史ふれあい館)、明円寺のコンクリート梵鐘(長野市豊野)
「幸せになれる」と渡った満州で待っていたのは、ソ連侵攻と死の逃避行だった
「終戦も信じられず集団自決した六百余名の霊を慰めんとしてこの碑を建立す」。中野市・東山公園の「高社郷開拓団」の慰霊塔。「幸せになれる」という国策のもとで渡った満州でのソ連侵攻。関東軍は団をソ連軍の盾として見捨て、逃走。軍隊にも国にも見捨てられた高社郷開拓団は、親が自分の子を殺し、大人同士で殺し合う集団自決に追い込まれた。
戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語りつぐ拠点とすることを目指す満蒙開拓団平和記念館。約27万人にのぼる満蒙開拓団のうち長野県は全国最多の3万3000人。特に阿智村のある飯田・下伊那は8300人余と県内最多。阿智村の開拓団には、後に“中国残留孤児の父”と慕われた長岳寺住職・故山本慈昭さんがいた。動画は前阿智村長の岡庭一雄さんの講演。「『幸せになれる』という国策のもとで、正しい情報が知らされないまま渡った満州で待っていたのはソ連侵攻と死の逃避行だった」「国の言う通りに追随していたら、自治体は、戦争荷担の、侵略の先兵になってしまう。それが満蒙開拓団に多くの人々を送り込んだ長野の村々の教訓だ。自治体は住民のためにどうしたら良いのかを一生懸命に考えなくてはいけない」
松代大本営建設で連行された朝鮮人と地元住民の苦しみ
松代大本営は、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に、「本土決戦」を叫ぶ旧日本軍が最後の拠点として、東京から現・長野市松代町に、大本営、政府各省等を極秘のうちに移転することが計画され、建設が行われた地下軍事施設群。工事は鹿島組と西松組が請け負い、主に朝鮮人労働者が従事。その数は強制連行と自主渡航による7千人前後と推定されているが、工事犠牲者の数や実態は明らかになっていない。日本人も国家総動員法に基づき勤労動員された。学徒勤労動員もあった。
信州の戦争の歴史について書こうとする時、松代大本営建設は欠かせない
旧陸軍伊那飛行場跡地
伊那市にある旧陸軍伊那飛行場跡地。工事は学徒動員や朝鮮人の過酷な労働によって行われた。今は静かな住宅街。弾薬庫が民家の倉庫となって残っている。
特攻隊員として「所感」を出撃前夜に書き残した上原良司
上原良司は、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員だった。1945年5月11日午前6時15分、三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。写真は上原の記念碑(池田町)、上原が特攻前に家族に別れを告げた場所(安曇野市)、妹の上原清子さん(松本市在住)
コメントをお書きください