松代に根づいた「アンネのバラ」。差別をすることも戦争をすることもないバラが、この地で語っていること

第二次世界大戦中のオランダでナチスの迫害を受けた「アンネの日記」の著者アンネ・フランクに由来する「アンネのバラ」は、平和のシンボルです。

父は朝鮮人、母は日本人の山根昌子さん(故人)が、東京の神代植物園から株分けしてもらった「アンネのバラ」。山根さんから「このバラをこのあたりでいっぱいにしてください」とお願いされたのが、長野市松代町の花づくり農家、中沢忠実さん。中沢さんは思いにこたえ、30年育て続け、希望する人には株を分けています。(写真は長野市松代町・大島博光記念館のアンネのバラ)

 

なぜ、この松代で「アンネのバラ」なのでしょうか。

差別をすることも、戦争をすることもないバラは、この地でなにを語っているのでしょうか。

松代大本営

松代大本営は、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に、本土決戦」を叫ぶ旧日本軍が最後の拠点として、東京から現・長野市松代町に、大本営、政府各省等を極秘のうちに移転することが計画され、建設が行われた地下軍事施設群。工事は鹿島組と西松組が請け負い、主に朝鮮人労働者が従事。日本人も国家総動員法に基づき勤労動員され、学徒勤労動員もありました。

工事に組みこまれると、生きるか死ぬかの強制労働が課せられました。死傷者が相次ぎましたが、遺体の行方すらわからないなど、犠牲者の数や実態は明らかになっていません。

沖縄の地上戦は松代大本営建設の時間稼ぎの持久戦でした。

山根昌子さん

山根昌子さんは1939年生まれ。父は朝鮮人、母は日本人。第二次大戦末期、父は松代大本営の工事に動員され、一家で朝鮮人飯場に住まわされていました。

1960年、一家は北朝鮮に渡ることになりましたが、山根さんはどうしても見知らぬ国で暮らす決心がつかず、一人日本に残るりました。その後、結婚・出産・離婚、東京で懸命に子どもを育てました。

幼い頃から貧困とヘイトスピーチに苦しめられてきた山根さんは、「戦争」も「朝鮮」も忘れたい言葉でしたが、松代大本営について書いた「キムの十字架」(和田登・作)と出会い、真相を究明する決意を固めました。

新しい証言などを次々と発掘、松代町内に「慰安所」の存在も確認しました。

1993年、山根さんは病のため急逝しました。54歳でした。

キムの十字架

「キムの十字架」(明石書店)は、和田登・作の小説。アニメ映画化もされました。

アジア太平洋戦争の末期、朝鮮南部の村に育ったキム・ジェハとキム・セファンの兄弟。ある日、セファンが聖書の豆本を拾ったことから、教会に通うようになります。日本政府によりキリスト教が弾圧されていたことから、父親はセファンの将来を心配して、遠くの鍛冶屋に預けます。数年後、ジェハは日本に強制連行され、松代の大本営工事現場で働きます。

戦後、朝鮮人労働者たちは解放されましたが、ジェハは帰国寸前に、セファンもこの大工事の別の現場に連行されていたことを知ります。必死にセファンを探し回ったが、セファンは鍛冶屋の親方の身代わりとなって日本に来て、今度は同胞の身代わりとなってダイナマイト爆死していました。それを知ったジェハは、壕内の岩盤に心を込めて十字架を彫り、やがて、弟の魂は故郷に帰りました。

小説のラストシーンでは、日本人牧師が、弟が板切れに書き残したハングル文をジェハに教えます。朝鮮人には日本語教育が強制され、ハングル文字が読めなかったのでした。


日本農業新聞2012年7月15日
日本農業新聞2012年7月15日