教員の高木義隆さんのスピーチ(4・23共謀罪反対パレードinながの)
長野県教職員組合執行委員長の高木義隆です。
共謀罪法案は、私たちの平和や民主主義を求める運動に対して監視を強化し、民衆弾圧へとつながる法案です。
この法案は「現代の治安維持法」と言われていますが、戦前の治安維持法成立時、政府はなんと説明していたか、「一般の市民には影響はありません」です。今の政府と同様の説明だったのです。
しかし現実はどうだったのでしょうか。
この長野県で治安維持法による大弾圧がおこなわれました。2・4事件です。
治安維持法が成立してから8年後の1933年、2月4日から半年あまりの間に、長野県で多数の労働者、農民、学校の教員などが治安維持法違反として検挙されました。全検挙者608名のうち230人が教員でした。
この2・4事件の弾圧によって、多くの教員が教壇を追われました。
その結果、長野県の教育は、それまでつちかわれてきた、「子どもたちの現実から出発し、子どもたちを大切にする」という自由主義教育の伝統も失われたのです。
そして長野県は全国で一番大勢の子どもたちを満蒙開拓青少年義勇軍として、満州(今の中国東北部)へと送り出していくことにつながっていきました。
昨日の信濃毎日新聞で、2・4事件で摘発された教員の子どもの方のコメントがのっていました。
「市民に弾圧が及んだ時代を、今の政治家は知っているのだろうか」
私たちは、過去の歴史に学ばなければなりません。そして、今の時代を生きる歴史の主人公として、民主主義を構成する主権者の1人として声をあげます。
未来に生きる子どもたちのためにも、共謀罪を廃案に追いこみ、民主主義を守りましょう。
1933年、教職員30人中13人が治安維持法違反で検挙された茅野市立永明小学校。学校史にはこう記されています。(信濃毎日新聞1988年5月24日) pic.twitter.com/zPZ2zj47SJ
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
「平成の治安維持法」といわれる共謀罪。1933年、長野県では治安維持法により、戦争反対を訴える多くの教員が検挙(二・四事件)。この弾圧によって、長野県の教育はリベラルな気風が失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることに。 pic.twitter.com/3lAfQw3HWV
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年1月17日
弁当をもってこれない子どもの机のなかに、そっとおにぎりをしのばせたーー今村波子さんはそんな青年教師でした。今村さんを襲った治安維持法、今村さんのそれから。(今村さんと関わりの深い、小林千佳子さんのお話) pic.twitter.com/YcCIyCafuP
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月9日
貧しくて学校へ通えない子どもたちに教育を受けさせようとして、二・四事件で検挙された高地虎雄さん。戦場では、自分はけがをしても敵を殺さぬように、照準を外して銃を撃ったとも。二・四事件の検挙の際、特高の拷問で仲間の名前を言ったことを生涯後悔していたそうです。(信毎2005年6月7日)
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月5日
治安維持法により、多くの教員が検挙された二・四事件のそれから。復職の誘いを断り、「児童の前には再び立つことはできない」という教員、「青春時代は戦争にあけ、戦争に終わりました」「一番損な時代を生きた」という教え子たち。「現代の治安維持法」が共謀罪法案(信濃毎日 昭和57年2月9日) pic.twitter.com/2GAM9yNVEC
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月5日
この歴史をながめると、今と重なってきます。共謀罪法案を考えるとき、これが成立することで、社会にどういう作用を及ぼすかという視点が大事とおもいました。2・4事件は、治安維持法により反戦、反貧困を訴える教員らが「アカ」のレッテルを貼られ、弾圧された事件です。 pic.twitter.com/Km4yiDHeY4
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月6日
長野市在住の金子さんは、担任の和田先生から「君が満蒙開拓青少年義勇軍に行ってくれなければ、私は教師をやめなければならない」言われ、義勇軍に行くことを決意します。金子さんは満州の地で、ソ連侵攻と死の逃避行を経験しました。帰国後、金子さんが和田先生と再会したとき、和田先生は pic.twitter.com/owgAtH9rw7
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
教師として満蒙開拓青少年義勇軍を送出した宮川清治さん(編集:満蒙開拓平和記念館) pic.twitter.com/OeLn00CjTQ
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
満蒙開拓青少年義勇軍というのは、子ども兵だったわけですよ pic.twitter.com/nmFu90Yg68
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年8月12日
続)230人の教職員をはじめ608人が治安維持法違反により検挙された、2・4事件。この報道は7ヶ月間、報道禁止でした。報道を禁じて、取り調べた内容をいっせいに発表をしたわけで、衝撃的な記事となりました。信濃毎日新聞元記者の黒岩範臣さんは「マスコミも政府の狙いにうまく利用された」と
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
続)2・4事件の記事の解禁は9月15日。8月11日に主筆・桐生悠々が書いた評論が、有名な「関東防空大演習を嗤う」。これが当時台頭してきた軍部の怒りを買い、在郷軍人会によって、信濃毎日新聞への恫喝や不買運動が展開されます。こうして軍部の圧力に屈したなかでの2・4事件の号外でした
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
続)桐生悠々は反共産主義的な立場の側面がありました(信毎全体はそうでもなかったとも)。元信毎記者の黒岩範臣さんは「軍部の台頭が反マルクス主義者の桐生をも追放した、というのが当時の情勢だったと思います」といいます。この一連の問題によって、信毎のリベラルな気風は奪い去られました。
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
続)そして、この2・4事件により、リベラルな人たちもまた、時代に抗する力はすでに残っていませんでした。一方でアジア太平洋戦争の惨禍、長野県でいえば満蒙開拓の苦難の歴史も経て、戦後、数々の困難に直面しながらも「二度と戦争を繰り返さない」という歴史をつくってきたともいえます。
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年5月7日
元信濃毎日新聞社記者の黒岩範臣さんが「こんな道は、二度と歩んではなりません」とこう語っています。多くの教員などが治安維持法によって検挙された二・四事件当事者の先生たちに話を聞いたときのこと。
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年11月15日
「その時、話されたことが忘れられません」⇒
続)「『信濃教育会をはじめ、当時の指導者たちは、二・四事件を不祥事件として非難した。そして軍国主義を押し進めた。ところが、敗戦と同時に、誇り高く教えた教科書を黒々と塗りつぶした。この現実をどうみたらよいのか』ーと。」
— 憲法かえるのやだネット長野 (@yadanetnagano) 2017年11月15日