コロナ禍のなか、冊子づくりをすすめています その意義を世界と日本の事例から考える(コロナと暮らし実行委員会)

20日、コロナと暮らし実行委員会を行いました。

 

コロナ禍のなか、生活者として、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで表現した文章を集め、冊子にする作業をすすめています。

 

冊子をつくる意義を世界と日本の事例から深めました。

 

チリのアルピジェラ。アップリケのタペストリーです。もとはチリ沿岸部イスラ・ネグラ地域の伝統手芸。1973年以降、ピノチェトによる新自由主義・軍事独裁下、政治弾圧で家族を失ったり、貧困に苦しむ女性たちがアルピジェラを用いて自分たちの日常生活を表現し、人権侵害に抵抗するネットワークを形作っていきました。

 

日本の「生活綴方」。生活者としての子どもや青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品です。生活綴方運動は、〔1〕日本の風土から生まれた土着の教育思想、方法であり、〔2〕公権力の教育支配に対抗する下からの教育として、〔3〕子どもの実感や要求を出発点とし、生活者としての現実認識を育てようとする教育としてとらえることができます。日本近代教育史上、重要な意義をもつ運動で、学校の外での成人や青年の運動にまで発展しました。

信州青木村の歴史。大坂なおみ選手の「マスク」に通じる人権の礎が見られます

「青木村では一揆の主謀者は手厚く葬られ、機をみて名誉回復が行なわれるようになる。村びとは自分たちの歴史を祠にきざんで語り継ぐことを怠らなかった」「小県郡青木村の青年会が出していた村の新聞『青木時報』…青木村青年会の『青木時報』も、その伝統を引き継いでいる」

【信濃毎日2003年7月10日 青木村見参・その一(井出孫六)】

  

青木時報とは

「青木時報は…1921年、大正10年、小県郡青木村の青年会が創刊した新聞である。一般紙にあきたらない青年たちが『先ず最も近い社会生活の団体としての村を愛さねばならない』と、村に腰を据え、村民の、村民による、村民のための改革をめざして用意した紙の武器だった」(信濃毎日2012元旦に当時主筆だった中馬清福さん)

「『青木村誌』は、戦時中、県拓務課が満州移民を督励したが、本村は意欲が低かった―と記している村を救ったその功績は、時報にあったことは明らかだ(※1940年11月、政府から廃刊を命ぜられた)」(信濃毎日2003年7月3日 井出孫六さん青木村・ルポ)

 

青木時報の編集にたずさわった宮原義男翁

「昭和初年の青木村青年会は、入営する仲間を日の丸ではなく赤旗で見送ったりした…青木村出身の新兵の来歴はすべて調べあげられていたのだ。反戦兵士のレッテルを背に、一九三一年九月満州事変が勃発するや、宮原二等兵は上海に送られ、満州の北辺に転戦」「次つぎに戦友が傷つき斃れてゆくなかで、宮原二等兵は丹念に日記を綴り、詩を書き、青木時報にレマルクばりの戦場報告…青木時報の読者にとって、満州事変は容易ならざるゲリラ戦の様相を帯びていることが読みとれたにちがいない」【信濃毎日2003年7月24日 青木村見参・その三(井出孫六)】

大坂なおみ選手の「マスク」で思ったのは、信州青木村のこの話(小学館学習まんが日本の歴史14巻)、「勇気のあったあの新七どんの最期が、今も目にやきついている」「おじい…おら、おら、いつまでもわすれないよ」が、人権の礎だということです。あったことをなかったことにしない。